もし神さまがいるのなら

もしもし神さまいるのなら 聞きたいことがたくさんあるんです

相談するのは、話を聞いて欲しいから

 

誰かに相談したときにら

「どうしたらいいんでしょう」

と言うけど、答えは自分の中で出ている人もいる。

 

だから、こちらが何を提案しても、曖昧に反応する。

その人はこたえではなく、

共感が欲しいのだ。

肯定が欲しいのだ。

理解が欲しいのだ。

 

共感なく解決策を提示しても、満足しない。

それはそうですけど…と、返事はするけれど、腑には落ちていない。

 

それは解決したいのではなく、

気持ちをわかってもらいたいのだ。

寄り添ってほしいのだ。

癒しがほしいのだ。

 

だかそれを本人は気づいていないことも多い。

 

癒されたいなんて望んではいけない。

そんなこと望むのは、甘っちょろい考えだ。

共感してほしいことを素直に口できない、望めない。

自分が誰かに寄りかかることを禁じている。

 

だから、相談内容は、

解決したいになる。

でも本当は、

癒しを望んでいる。

解決したいのではなく、

抑えている感情を解放したいのだ。

 

共感してほしいのだ。

間違ってないよ、と理解をしてほしいのだ。

 

共感が欲しいのに、それを素直に望むことができない人は、

他者が他人に甘えることも許さないことがある。

 

自分より恵まれてる人を見て、それは甘えだ、と非難する。妬み恨み、足を引っ張ろうとする。

 

その本音は、

私が甘えられないのに、恵まれてるお前が甘えるなんてずるい。うまくいかないでほしい。じゃないと私の気が収まらない。

 

 

隣の芝生は青い。

誰かを羨ましく思うことはある。

 

なんでこんなに私は大変なのに、

あの人はそんなこともなく、

私より幸せなの。ずるい。

 

そう思ってしまうことだってあるだろう。

そう思ってしまうことは、悪くない。

思うことはなんだって自由だ。

思ってしまうものは思ってしまうし、

自分の意思とは関係なく勝手に生まれる感情をコントロールすることはできない。

 

思ってしまうことは、いい。

ずるいという気持ちから、

その人の足を引っ張りたくなることもあるだろう。

でもそこで、

実際に、他者の足を引っ張ってもいいことにはならない。

引っ張れば、よく思われない上に、

同時に、自分で自分の脚を引っ張っていることになる。

自分で自分の幸せを妨げることになる。

 

あなたがその人と同じよう状態になれたとき、

あなたはそれ以上に幸せを自分に許せなくなる。

あなたはあなた自身を責めてしまうだろう。

 

幸せになろうとしても、

他者に望んだことを、自分に課してしまう。

その程度で、悩むな。

十分幸せなんだから、それ以上望むな。

私の方が大変なのに、甘えるな。そんなお前は、ダメな人間だ。

 

自分に対してのタブーを、他者に望み、

他者に望んだ枷を自分に課してしまう。

 

この程度で悩んではいけない。

こんなに恵まれているのだから、それ以上望むのはダメだ。

あの人は私より大変だから、私はまだまだでダメなんだ。

 

 

 

あの人は私より不幸だから応援できる。

あの人は私より幸福だからずるい。

そう思うことはいい。思ってしまうこと自体は仕方がない。

なくせるものでも、消せるものでもない。

 

でも、そこで幸せになりたいのなら、

他者の幸せの脚を引っ張らないことだ。

その人の幸せに水を差さないことだ。

 

他者をずるいと思うなら、自分にそれを許そう。

あなたが自分の幸せを許すために。

あなたがより幸せになれるために。

 

幸せにになりたければ、

自分に幸せを許すしか、

ないのだ。

 

その程度で、悩むな。

十分幸せなんだから、それ以上望むな。

私の方が大変なのに、甘えるな。そんなお前は、ダメな人間だ。

と他者に対して望むのは、

あなた自身がその言葉に従っているからだ。

私と同じ目にあってくれないと、私ばかり我慢することになる。そんなのはずるい、のだ。

 

不幸なままで、安全な位置から相手を他者を責めている方が楽だろう。

どうせ自分は幸せになれないから、

と幸せを望まないのも1つの生き方だ。

(他者に好かれる生き方ではないだろうが)

 

でも幸せになりたいのなら、

あなたはあなたに幸せになることを許さなくてはならない。

 

幸せそうな人をずるいと思っても、

そこで、

あなたの足を引っ張る声と同じことをするのではなく、

私もそれくらい幸せになってもいいはずだ、自分の幸せを許すのだ。

 

私も以前は、幸せになる勇気がなくて、

でも幸せに向かっている人が羨ましくて、

足を引っ張っていたことがある。

足を引っ張りたかったんじゃない、

幸せになりたかっただけだった。

 

でも引っ張られる身からすると、

たまったもんではない。

あなたの不幸に、あなたの八つ当たりに、

私を巻き込まないで、と思う。

そんなことしないで、あなたも幸せを掴んでほしい。邪魔をしないで欲しい。関わりたくない。

 

 

人の足を引っ張った分、

自分が幸せに向かおうとするとき、

自分と他者が立ちふさがってくる。

 

自分の幸せを許せないからと、

他者の不幸せを願うものは、

自分の幸福も得られない。

 

あなたは幸せになりたいの?

それとも、

私は幸せにはなれないと駄々をこねて、

不幸なままで、安全な位置から相手を他者を責めていたいの?

 

どうせ私には無理と思う気持ちがないわけじゃない。けど、そんなことを思っても、誰も助けてはくれないのだ。

 

私は不幸でいるのはもうやめたのだ。

幸せになれない人と一緒にいるのは安全かもしれないけど、

私は少しずつでも幸せになりたい。自由になりたい。

昔の幸せになれなかった私が、「薄情者」と幸せになろうとする私をひきとめようとするけど、

それに従っても何も得られない。

昔の私からすると、いまのわたしは羨ましいんだろう。

でもそんな私が、少しずつ幸せを自分に許してきて、ここまできたんだよ。

私はもう幸せになることを迷わないよ(多分)。足を引っ張る人はいるけど、凹みながらもめげないよ(た分)。その人がわたしを幸せにしてくれるわけじゃないんだから。 

 

どう神に願ったところで、 

私を幸せにできるのは私だけなんだから。

 

 

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